阪急うめだ本店は阪急梅田駅に隣接するデパートです。
阪急百貨店の歴史
阪急百貨店のなりたち
創業者は小林一三氏で、1929年に鉄道会社直営の電鉄系百貨店として開業しました。阪急百貨店開業前の1920年(大正9年)に、5階建ての阪急梅田ビル1階に白木屋という東京・日本橋の老舗呉服系百貨店の出張店がやってきて、そこで食料品や日用雑貨の販売がはじまりました。白木屋での販売の様子から、小林一三氏が1925年(大正14年)に阪急マーケットとして食料品や生活雑貨のスーパー、阪急食堂を移設開業したことが現在の阪急百貨店の最初の形でした。1929年(昭和4年)に改築し、百貨店の規模にし、ようやく百貨店と名乗るべきものとなりました。
初期の阪急百貨店の様子
現在は高級志向の阪急百貨店ですが、開業当初のコピーは「どこよりもよい品物を、どこよりも安く売りたい」という大衆路線の百貨店で、阪急電車を利用する行楽客向けのお弁当販売などを先駆けて行っていました。開業当時、もっとも目玉だったのが7、8階に構えた大食堂でした。当時珍しかった高層階の眺望をウリに、食券方式などの目新しい販売方式を採用し、話題の人気スポットにもなり、休日には家族でお出かけする場所として多くの人に利用されるようになりました。
阪急百貨店の成長アイディア
阪急百貨店とライスカレー
創業者の小林一三氏はアイデアマンとして当時から個性的な人と考えられていました。当時大食堂での看板メニューとして、ライスカレーがありました。当時高級な食べ物だったライスカレーを阪急百貨店ではコーヒー付きでリーズナブルに提供していましたが、開業直後に昭和恐慌に見舞われます。その時、ライスカレーのライスだけを頼んで、テーブルにあったウスターソースをかけたソーライスが客の間で流行ります。それに対して小林一三氏は「ライスだけの客歓迎」と張り紙をし、福神漬けまで付けて提供するというエピソードがありました。これは、ソーライスを食べた客が結婚して子供ができた時に、その時の思い出に家族で遊びに来てくれるだろうということを考えてのことだったと言います。このように、阪急百貨店のファンを増やしていったことによって、徐々に売り場面積も広がり、現在のような阪急百貨店の姿になりました。
阪急百貨店の高級路線の始まり
大衆路線での品ぞろえをしていた阪急百貨店ではありますが、早い段階に美術品の取り扱いも行うようになります。古美術店を入店させたり、洋画の取り扱いを始めたり、大衆路線を売り出しながらも、生活の豊かさを感じさせる美術品をお手頃な価格で販売し、新しい生活スタイルの先駆けを担っていきました。
阪急百貨店の先駆的サービス
現在、阪急電車の構内では「とりクロ」という高級食パンをネットで申し込み、仕事帰りに駅でもらい受けるというサービスが展開されていますが、このようなサービスは1937年(昭和12年)にも同様なものがありました。豊中駅構内に配給所という小型店を開業し、こちらで注文を受け、こちらで商品を受け取るサービスを展開したのです。電車便を使って30分ごとに梅田の百貨店から商品を発送したのですが、これによって沿線に住む顧客が、わざわざ梅田まで出ることなく、梅田の阪急百貨店の商品を買うことができるようになりました。これは人気があり、当時他の主要沿線駅38か所で同じことが展開されました。
阪急百貨店の躍進
1953年(昭和28年)には東京へ進出し、銀座の一角に店舗を出します。それによって、関西関東の両方で店舗を構えるチェーン店に発展します。また、近畿内でも1970年(昭和45年)には大阪の千里ニュータウンに千里阪急、1976年(昭和51年)に京都市の四条河原町に四条河原町阪急(2010年閉鎖)、1982年(昭和57年)にうめだ本店の別館として阪急イングスを開業。その後も1984年(昭和59年)東京有楽町に有楽町阪急、1989年(平成元年)に兵庫県川西市に川西阪急、1992年(平成4年)に神戸ハーバーランドに神戸阪急(2012年閉鎖)、1993年(平成5年)兵庫県宝塚市に宝塚阪急、と相次いで出店し、関西、関東での地盤強化を図りました。そして、2008年(平成20年)には阪急西宮ガーデンズに西宮阪急、2011年(平成23年)にはJR博多シティと共に博多阪急を開業しました。2007年(平成19年)には長年ライバルだった阪神百貨店と経営統合します。また、阪急百貨店うめだ本店は 2012年(平成24年)に大規模なリニューアル工事が終わり、リニューアルオープンします。売場階数が地下2階から地上13階、営業面積が8万平方メートルとなりました。新しくなった阪急百貨店うめだ本店は、9階に「祝祭広場」を設け、広い空間で様々な催しが行われるようになり、それを囲むように階段状の休憩スペースが作られています。