お初天神通り商店街

お初天神通り商店街は御堂筋の東側にある曾根崎の一角にある商店街です。通称おはてんと呼ばれており、近松門左衛門の『曽根崎心中』の舞台になった露天神社があります。

お初天神通り商店街の概要

お初天神通り商店街のある場所は、かつては大坂七墓のひとつである梅田墓地がある、荒れ地や森が多いひとけのない廃れたところでした。ですが、1874年に大阪駅が開業し、1906年に阪神大阪梅田駅、1910年に阪急大阪梅田駅が開業すると、一気に町が栄え始めました。

1909年この辺りは史実に残る大火事がありました。北の大火や天満焼けと呼ばれ、天満から福島のあたりまで全焼し、かつて蜆川と呼ばれていた曾根崎川が、燃え残った瓦などの廃材の捨て場所になっていて、埋め尽くされたほどでした。そのあと、曽根崎川はそのまま埋め立て地とされました。

大正時代には御茶屋が並びはじめ、1918年ごろには芸妓置屋が多く立ち並ぶようになり、芸妓が約800人、1937年には約600人いたとも言われています。京都のような風情のある御茶屋だったといわれています。

そして、近松門左衛門の曽根崎心中のお初のように戯曲などに名を残す遊女たちも出てくるようになりました。「心中天の網島」の小春と治兵衛、「心中二枚草紙」のお島と市兵衛、紀海音の「梅田心中」のお高と弥市などです。

近くの堂島新地に米市や仲買人、両替商などが立ち並んできたため、曽根崎新地に遊所が集まるようになり、1942年には商いの場の堂島新地、遊里の曽根崎新地と区分され、曽根崎新地は公の遊所地となりました。

そして、近くの中之島は江戸時代から船が横づけしやすいという理由から諸藩の蔵屋敷が立ち並んでいました。中之島からも多くの人が遊びに来て、にぎやかな繁華街へと成長していきます。曽根崎新地や堂島新地、中之島あたりを北新地と呼ぶようになりました。1960年ごろからバーやクラブも増加しはじめ、東京の銀座、大阪の北新地といわれるようになりました。

戦時中はこのあたりも戦災を受けて、露天神社の本殿は消失してしまいますが、商店街の西側は焼け残りました。終戦直後からお初天神の境内に飲食店が集まり始め、お初天神食道街を形成していきます。1955頃には現在の商店街の形となっていきます。

1953年にはすずらん通りという名前の商店街でしたが、その後、センター街会という名を経て、曽根崎お初天神通り商店街という名前に変化しました。1946年には商店街の入り口にうめだグランド花月がオープンします。

1970年頃には大阪万博が開催され、新御堂筋が完成し、駅前には大阪駅前ビルが竣工して、ますます繁華街として栄えます。そして、1970~1972年は大阪で最も地価が高い場所になりました。その中で誕生した現在も残るお初天神通りの老舗としては、お好み焼きのゆかり、元祖とん平焼きの本とん平、しゅうまいの阿み彦の小料理の扇屋などがあります。

明治政府の廃藩置県でその後、蔵屋敷は廃止されますが、この地は役所や学校、会社、倉庫などに発展していきます。

お初天神通り商店街の話題

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